周辺観光のご案内

小河内ダムと清里の開拓

 村からそう遠くないところにある小河内(おごうち)ダム(奥多摩湖)と清里の開拓には、どのようなつながりがあるのでしょうか。
 東京の人々の飲み水用としてダムが作られることになり、東京都の小河内村、山梨県の丹波山村・小菅村の合計647戸がダムの底に沈むことになりました。そこで、昭和13年4月17日、丹波山・小菅村の28戸の人々が清里に引っ越して行きました。
 最初のうちは、雑穀やじゃがいもなどを作っていましたが、昭和25年に2戸の農家が、初めて酪農を始めました。その後、酪農に熱心な人々は、研究会を作って、毎月3回の学習会を6年間続けました。この研究会に参加した他の地区の人々も農業と酪農をするようになりました。
 昭和30年頃には、清里の農業は大きく変わってきました。また、昭和28年頃には、清里周辺の町村(20数ヶ町村)が「集約酪農地域」に指定され、国の指導も受けながら酪農に力を注いだので、乳牛の数はとても増えました。

 

開拓の思い出

 戦争が終わってすぐ、この荒野に私は来た。だれもいない林野。だれもいない山の中。見渡せば木々、大きなカラマツがうっそうと茂っている。聞こえるものは、小川のせせらぎと小鳥の声。木々の間をぬって時々吹いてくる風の音。私はひとり、この地に生きるんだと心に誓った。ひとくわ、またひとくわと開墾にうちこんだ。20才の秋であった。この野辺山に来る時、父から100円もらった。あとは何もない。家といったら、原始時代を思わせるような住まい。かやを集め、屋根を作り、その中に住んでいたのだった。となりもいなければ、だれも住んでいない。そのうちに2軒できた。はなれていたが、5分くらいで行くことができた。
  昭和22年には、野辺山と板橋の境のところに家を建てた。家といっても寝ていて月が見え、雨が降れば、枕の下まで水がたまり、下駄が浮かんでいた。夜になると、きつね、ふくろう、鹿が鳴いた。黒々と開墾した畑には、木の根や石が次から次へと出てきて、畑を増やすのはなみたいていのことではなかった。
  作物といったら、あわ・そば・だいずなどの雑穀であった。昭和23年頃、組合ができ、雑穀ではだめだということになって、大根などを作ることになったが、うさぎに荒らされて、植えても植えても食べられてしまった。  昭和32年頃、電気がついた。やっと人並みになれるような気がした。電気がついた日のまばゆいほどの電気の光・子どもたちの喜びは忘れない。ようやくラジオも聞けるようになったので、やっとの思いで買った。
  こうして、文化生活に一歩近づけたのです。
久留米いさをさんの話-『野辺山の開発』より-

 

清里の父・ポ-ル・ラッシュ博士

 明治30年(1897年)、アメリカ・ケンタッキ-州ルイビィルで生まれたポ-ル・ラッシュ博士は、28才の時、関東大震災で大きな被害を受けた東京を建て直すために日本に来ました。
  日本では、大学の教授や病院を建てるための募金活動をしたり、アメリカン・フットボ-ルを紹介したりしました。
昭和13年頃になると、清里に「清泉寮(せいせんりょう)」を建てました。戦争中は、強制的にアメリカに帰されましたが、終戦の年(昭和20年)には、再び日本に来て、清里での計画を進めました。
その後、「清里農村センタ-(キ-プ協会)」を作るために、アメリカで熱心に募金活動をしました。博士の熱意に心を打たれて、はるばるアメリカから手伝いにやってきた若者もいました。
このセンタ-で最も素晴らしい仕事は、今まで日本人が使っていなかった標高の高く、しかも寒い地域に新しい酪農の方法を教えたことです。
昭和54年、博士は82才で亡くなりましたが、今でも博士の考えであった「ネバ-・ギブ・アップ(決してあきらめない)」「バ-ニング・デザイア(燃えるようなやる気)」は生かされています。

 

もう一人の清里の父・安池興男

 静岡県で生まれ、京都帝大卒の八ヶ岳開拓事務所長の肩書を持つ安池興男は、まだ30を少し超えたばかりの農林技師であった。
  昭和11年夏、彼は清里駅に降り立った。
  「甲斐国境にある山梨県の北海道」といわれた僻地の開拓に携わることになった安池氏は、小河内ダム建設の移転問題に深く関与し、小菅・丹波山両村からの入植を実現し、彼等と寝食を共にして開拓営農の確立と八ヶ岳部落の創生に支援を惜しまず、奮闘しました。
  5年の後、奈良県耕地課長として転任しましたが、開拓民とのきずなは清里を去った後も固く結ばれ、退官後も静岡県有数の山持ちとして、私財の投入を繰り返し行い、開拓民の困窮を救っています。
  昭和55年、経済的に余裕を持った開拓者達は、部落の集会所である公民館を清里小学校前に建設しました。老齢の安池氏は、最後の資金として1000万円を拠出しています。開拓者達は、「興男」の一字を冠して、「八ヶ岳興民館」と命名しました。